エコーバレー⇔スイス・アンデルマット姉妹提携の歴史
姉妹提携の起案
1982年春の東京、スイス・アンデルマットとの姉妹提携の歴史はここで始まる。国道246号沿いのあるファミリィーレストランに3人の男女が集った。高橋信昭、後藤明美、永井紀子である。高橋信昭はエコーバレースキー場でスキースクールの経営を始め、後藤明美は高橋の志賀高原時代のスキースクール受講生であった。永井紀子は後藤明美の友人であった。エコーバレースキー場は開場したばかりで、高橋はスクール経営の傍らスキー場のPR活動を手伝っていた。そして高橋の経営するスクールは東京の渋谷道玄坂に東京事務所を構えており、エコーバレースキー場の東京事務所としての役割も兼務していた。長野で新設のスキー場としてスタートしたエコーバレーは、どうしてもその知名度を上げるための広報活動が必要不可欠であった。そこで高橋・後藤・永井の3名はPR活動の目玉として、スイスとの姉妹提携の可能性を探るために集まったのだ。発案者は後藤明美であり、その友人の永井紀子にはスイスに婚約者がおり、力を借りる環境があった。 ここでスイス・アンデルマットとの姉妹提携を推進する基本計画が練られ、そのための使者として永井はスイスに渡ることになった。姉妹提携推進の事務局は高橋の道玄坂事務所に置き、同時に姉妹提携に絡むPR活動も開始した。東京にはほとんどのスキー関係諸媒体の本社があり、広報活動には好適な環境であった。
姉妹提携実現に奮闘
スイスに渡った永井はアンデルマット村との交渉に没頭した。長野では菅平高原が既にダボスとの提携を実現しており、ある意味では2番煎じの感もあったが、3名の計画は形だけのものではなく実質的な国際交流にあった。ここでの頼みの綱はスイス在住のウォルター・フックス氏にあった。彼が永井紀子の婚約者である。 渋谷の姉妹提携推進事務局は現地との連絡に明け暮れ、マスコミに対する様々な広報活動も同時に行っていたため、連日多忙な日々が続いていた。
エコーバレースキー場との調整
当時エコーバレースキー場は第3セクター方式での経営であり、一企業の経営と異なってこのような事例に対する対応のノウハウがなかった。スイスとの姉妹提携などという天から降って湧いたような話題は現実的でないとされた。また、当然このような国際交流には資金が必要であり、姉妹提携実現となれば相当な予算が必要となることも当然であった。当面の間、現地での活動資金や姉妹提携推進室の必要経費は高橋が負担することとした。そしてアンデルマット側からの姉妹提携の同意が得られた場合には、スキー場側が具体的に動き始めると云う事になった。高橋ほか3名にとっては、大きなリスクを伴ったプロジェクトであったが、もはや後に引くことは出来なかった。
姉妹提携の合意書
夏が終わり、秋風が吹くころ、現地から朗報が届いた。
スイスは今でも全体合議制の自治政治体制であり、このような国際交流でさえ村民全体の同意が必要となる。当時のアンデルマット村長ルッシ氏や、観光局長ムーハイム氏の尽力により、アンデルマット村は日本のエコーバレースキー場との姉妹提携に同意し、その証として公式な同意書を永井紀子に託したのだ。 秋のある日、永井はそれを携えて帰国。永かった提携活動は実を結ぶこととなり、推進事務局は喜びに沸いた。この報せはすぐにエコーバレーに伝えられ、ここでスキー場はその腰を上げた。
提携準備
第3セクター経営のスキー場として主に経営に当たっていた企業と町・国をすべて網羅する計画が練られた。高橋・後藤・永井の姉妹提携推進室は大使館を含むスイス側と文部省との調整にあたった。スキー場と町は地元の受け入れ態勢とセレモニー準備に追われた。
スキー場とアンデルマット村は姉妹提携の調印を、町は友好関係の締結を行うことになった。スイス大使館は民間レベルでの国際交流としての立場を汲み、一等書記官バーマット氏を送った。地元ではスキークラブの協力のもと提携セレモニーに向けて仔細な準備を進めた。